2018年02月26日

2月26日に思うこと

この日が来るたびに、先の大戦の事を考えます。
もちろん戦後生まれの身としては、想像にすぎないのですが。
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昭和11年皇道派青年将校たちによる軍事クーデター
当時、陸軍法務部長(陸軍法務少将)の祖父は、鎮圧後、特設軍法会議法務官として事件処理の任務に就きました。裁判部に属したのですが、検察役でもある取り調べ官(予審官)も兼務していました。通常の裁判であれば、検察官、弁護士、裁判官という役割に分かれるのですが、軍法会議では、祖父の様に役割を兼務する者もあり(ただし弁護士はそもそも置かれませんでした)、しかも非公開とされました。後にこの方式に疑問を投げかれられるのですが、当時の情勢では致し方なかった、としか言いようがないと思われます。
祖父も、「将校たちの言い分にはよく耳を傾けた」と言っております。しかし、将校たちの思想、信念はどうあれ、軍の命脈とする統帥の根本を破壊する行動であったことは覆うべくもありませんでした。つまり、クーデターに至った彼らの思想、信条というものは考慮されず、軍の規律を乱す反逆行為にどう関わったか?という基準に沿って判決がくだされることになった、ということです
自身がのちに「涙の判決」と表現しており、当時の苦渋する思い、大いに察するものがあります。思想的主導者とされた北一輝の取り調べ、及び、処刑にも立ち会っているのですが、「北はさすが人物であった。」と話しています。北一輝は「耶蘇(キリスト)は立って処刑されたが、自分は椅子に座って処刑されるのは少し贅沢だ」と言い、悠々と処刑されたそうです。更に、「もし、2・26が成功していたならば、支那事変(日中戦争)は起こることはなかったであろう」と述壊しています。中国と太いパイプを持つ北が生きていれば、一戦交えることはなかったであろうし、ましてや、太平洋戦争に突入することもなかったであろう、という意味です。この点に関しては、あのフィクサーと呼ばれた児玉 誉士夫も、自身の手記で同様の見解を示しています。ただし、クーデターが計画された時から、既に、裏で軍の重鎮につながる者がいた様で、当初から成功する可能性は低かったと思われます。
いずれにしても、これを機に統制派が一気に主導権を持ち、軍国主義へと突入することになり、まさしくターニングポイントであった事には違いありません。
過去の歴史に、もし?という仮定はないことは承知していますが、過去の事象を分析し、今後に生かすことは現代における我々大人の責務であろうと考えます。
このところ、少々きな臭い雰囲気が漂っていますが、後に「あの時がターニングポイントだった」などと言わせないように、情勢をしっかり見極めていかなければならないのではないでしょうか。
毎年、この日に思うことです。

〜追記〜
2・26事件は急に起こったわけではなく、長年に亘る社会現象と政府の後手にまわる対応が引き金となっています。昭和4年世界恐慌、凶作による農山村部の疲弊、昭和8年三陸地震による津波被害、満州事変、5・15事件、国連脱退、様々な事象が絡み合っている中で、青年将校たちは、日本の窮状を救おうと、そして政党や財閥の腐敗を正そうと決起したものです。(彼らの目指していた社会というのは、案外、今我々が生きる現代社会のようなものだったのではないかとさえ感じています)
クーデターは失敗し、その後主導権を得た統制派は言論を弾圧し、かねてから主張していた中国侵攻を目指し、大戦へと入り込みました。現代は平和で、今の段階で言えば(敗戦は)結果的に良かったと言えるのかもしれませんが、そこに行きつくまでには、国民の誠に大きな犠牲が有って成り立つものであり、そう考えると、単純に良かった、悪かったと割り切れるものではないと思います。
国民がまた悲惨な状況に入りこむことの無いよう、こういう機会に、忘れかけている記憶を今一度振り返ることも必要なのではないかと感じています。
尚、付け加えておきますが、私のこれらの発言内容は現在の既存政党のそれとは全く関係ありません。念のため。
posted by ゲンブン at 22:06| Comment(0) | 日記・エッセイ・コラム
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