投稿するかどうか迷いましたが、記憶が薄れていくことのないよう、私自身の年間行事の一つと考えることにしました。また、以前投稿した際いくつか質問をいただいており、それにお答えする内容も含めて再投稿いたします(全体のごく一部ですが概略として)。

<2・26事件>
昭和11年2月26日・皇道派青年将校たちによる軍事クーデター
当時、陸軍法務部長だった私の祖父は、クーデター鎮圧後、「特設軍法会議」・法務官として事件処理の任務に就きました。裁判官として裁判部に属したのですが、実際は尋問・取り調べを行う検察の「予審官」も兼務することになりました。これは非常にまれなケースだったようです。また、通常の「軍法会議」であれば、検察官、弁護士、裁判官という役割に分かれるものですが、「特設軍法会議」ではそもそも弁護士は置かれず非公開となりました。
先に起きた5・15事件、相沢事件の公判は「通常の軍法会議」が開かれ、弁護人が付き公開もされました。皇道派はこの状況を大いに利用し、被告人を英雄として扱い、広く国民に宣伝し、更に皇道派の結束も固めていったのです。「通常の軍法会議」は結果として皇道派を勢いづかせ、2・26事件へとつながっていくことになったのです。
統制派としては、再び皇道派の結束に利用されない為にも、非公開、弁護人なしという特別立法による「特設軍法会議」を設置する必要があったのです。
取り調べの際、祖父は「将校たちの言い分にはよく耳を傾けた」と言っており、青年将校たちの言い分、気持ちはよく理解したと思われます。しかし、将校たちの思想、信念はどうあれ、軍の命脈とする統帥の根本を破壊する行動であったことは覆うべくもなかったのです。
分かりやすく言うと、クーデターに至った彼らの思想、信条というものは考慮されず、軍の規律を乱す反逆行為にどう関わったか?という基準に沿って取り調べを行い判決がくだされることになった、ということです。将校たちの気持ちを知った祖父は、裁きの基準との狭間で、苦渋した思いをのちに「涙の判決」と表現していました。

*ここで法務官とはそもそも何か?という質問がありましたので、これにも少し触れておきたいと思います。
法務官は、大学で法律を学び、現在の司法試験の前身である高等文官試験司法科に合格し法曹資格を得たものの中から選ばれます。昭和17年までは法律のエキスパートである文官は、司法を守るため独立した存在であり、さらにその地位は保証されており、たとえ大臣であってもその地位に触れることは出来ませんでした。その後、法律の改正により文官から武官という立場となり、軍の影響を受けやすくなっていきました。
戦後、法務官であった者の多くは引き続き法曹界で活躍することとなり、私の祖父も弁護士として、そして大学教授として法律に携わっていくことになりました。
話しは戻り、思想的主導者とされた北一輝の取り調べ、及び、処刑にも立ち会っているのですが、「北はさすが人物であった。」と話しています。北一輝は「耶蘇(キリスト)は立って処刑されたが、自分は椅子に座って処刑されるのは少し贅沢だ」と言い、悠々と処刑(銃殺刑)されたそうです。
更に「もし、2・26が成功していたならば、支那事変(日中戦争)は起こることはなかったであろう」と述壊しています。中国と太いパイプを持つ北が生きていれば、一戦交えることはなかったであろうし、ましてや、太平洋戦争に突入することもなかったかもしれないという意味です。この点に関して、あのフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫はのちに祖父からその話を聞いたそうで、自身の手記の中で「さもありなん」と同様の見解を示しています。
ただし「クーデターが計画された時から、既に、裏で軍の重鎮につながる者がいたのは間違いなく、当初から成功する可能性は低かったであろう」と取り調べを進めていくなかでそう確信したそうです。
いずれにしても、これを機に皇道派は一掃され、統制派が一気に主導権を持ち、軍国主義へと突入することになり、まさしくターニングポイントであった事には違いありません。

*統制派と皇道派についても質問がありました
統制派と皇道派の流れはそもそも明治維新まで遡ります。長州派(統制派)と反長州派(皇道派)による露骨な権力・人事争いがエスカレートしていきました。統制派は陸軍大学校出身のエリートが多かったのに対し、皇道派は疲弊した農山村出身者が多かったのも影響しています。軍事政権下において日本の改革・経済を立て直すという点で目的は同じであってもその手法が大きく異なりその違いが浮き彫りとなっていきます。
皇道派は思想的主導者とされる北一輝らの影響を受け、天皇親政のもと日本を改革していくことを目指し、そのためには武力行使も厭わない急進派であると一般的にはそう謂われています。結局その通り武力行使にいたるわけですが、将校たちの実際の中身はそう単純なものではなかったようです。それは以下のような経緯から考えられるのです。
2・26事件は急に起こったわけではなく、長年に亘る社会現象と政府の後手にまわる対応が引き金となっています。昭和4年世界恐慌、凶作による農山村部の疲弊、昭和8年三陸地震による津波被害、満州事変、5・15事件、国連脱退、様々な事象が絡み合っている中で、青年将校たちは、日本の窮状を救おうと、そして政党や財閥の腐敗を正そうと決起したものです。
彼らの目指していた社会というのは、案外、今我々が生きる現代社会のようなものだったのではないかとさえ感じるのです。結局、太平洋戦争敗戦後、占領軍が日本を改革したわけですが、これとて平和的ではなくお互いの武力行使による結果といえるでしょう。
クーデターは失敗し、その後主導権を得た統制派は言論を弾圧し、かねてから主張していた中国侵攻を目指し、大戦へと入り込みました。今の段階で言えば現代は平和ですが、そこに行きつくまでには国民の誠に大きな犠牲が有って成り立っています。
国民がまた悲惨な状況に入りこむことの無いよう、こういう機会に忘れかけている記憶を今一度振り返ることも必要なのではないかと感じます。
尚、付け加えておきますが、私のこれらの投稿内容は現在のどの既存政党や団体の思想とも全く関係ありません。出来事を忠実に伝えていこうと考えているだけであり、誤解のないよう念のため申し添えておきます。